連日の体罰問題に関する報道では、徐々に体罰容認派の意見の数が少なくなってきていますが、私は今回の一連の報道に関して、体罰という行為が「刑法犯罪」だという指摘があまり出ないのが不思議でなりません。
そもそも法治国家であるわが国では、暴力が正当な行為とされる例として「力士やボクサーやプロレスラーなどの格闘技選手が試合で相手を殴るなどの行為」「消防士が消火活動の為に建造物などを破壊する行為」「医師が薬剤を投与しあるいは外科手術の行為」「刑務官が死刑を執行する行為」などが示されているだけで指導の一環としての暴力は挙げられていません。
また、そもそも学校教育法第11条では教師による懲戒を認めながらも体罰は認めていません。平成21年に最高裁は、女子をからかって尻を蹴っていた男子小学生をつかまえて壁に押し付け注意をした教師の行為を『正当な教育的指導であり体罰ではない』
とした判決を出していますが、まさしく教育的指導とはこの程度までのものであるべきだと思います。
間違った行為を正すための『注意』や『指導』は必要であり、指導者は、本人の成長のためにあえて声に出す必要があります。また、それに従わないときには懲戒として罰を与えることも必要な時があります。ただし、そこに暴力は一切容認されていないことを認識すべきだと思います。
『無難な人材はいらない』7月に東京で開催された統計学に関するセミナーに参加した際、講師の一人楽天の執行役員の方が口にされた言葉です。
経済成長が右肩上がりであった時代なら、無難な考え方をする人材の使い道もありましたが、経済が安定し、あるいは右肩下がりの時代にあっては、リスクを意識し何事にも挑戦する人材でなければ、企業は必要としないという話でした。
無論、様々なタイプの人材を揃えて日々の企業活動に取り組むわけですから、『無難な考え方』をする人材が全く必要とされなくなったわけではありませんが、時代の先端を突き進む企業の経営者の言葉には、強く心を揺さぶられました。
私自身は日頃から、個々の企業の経営において、企業を取り巻く環境全体を見て判断する無難なマクロ的な見方よりも、自社の持っている特性や潜在能力におけるリスクを把握するミクロの見方をすべきだと申し上げております。
例えば、同じ地域の同業他社の景気動向を分析し、それをモノサシにして自社の状況を評価し、今後の事業展開を検討することは、一見無難な方法のように思えますが、少しの間他社に差を付けることは出来ても、継続的に成長し続けるようなアイデアにはつながらないと思うのです。
企業の成長には人材育成は欠かせませんが、育成しようとする人材の素養として、何事にも『無難であろう』とする潜在意識を持つ人材は、育成しにくいのではないでしょうか。そういった視点で見ると、採用時に評価する社会人経験の長さはマイナス要因かもしれません。採用に際し、敢えて『未経験者限定募集』を掲げる企業も最近では珍しくないようです。